第一章
街にただひとつだけ残されていた孤児院の取り壊しが決まった。
子供たちの面倒をみていた職員は全員解雇され、代わりにやってきた無表情な役人たちが淡々と子供たちの整理に当たっていった。
公的告知が済むと里親候補たちがぞろぞろ集まって来たが、この街では大きな少年から順にもらわれていく。理由は簡単だ。里親たちは子供が十四歳の誕生日を迎えるとすぐさま兵役に就かせ、自分たちは毎月の給付金を手に入れる。
狙いはそれだけなので、十四歳に近ければ近いほど元手が少なくて済む。十三歳、十二歳の少年には希望者が殺到して抽選が行われ、幼い子には誰も目を向けなかった。
そんな打算的な里親候補たちを、ひたすら罵り続ける少年がいた。彼は孤児院の中でも特に手の付けられない問題児で、職員たちからは「悪童」と呼ばれていた。
「おい、お前ら!ちゃんとメシを食わせてやれよ!」「ケチって家畜のエサなんかやんなよ!」「そいつは泣き虫だからな!兵士になんて絶対なれないぞ!」
役人の一人が駆けつけて、悪童を黙らせようと棍棒を振り上げたが、彼は不適な面構えでこう言った。
「やれるもんならやってみろよ、腰抜け」
まだわずか九歳の少年だが、役人に対しても怯む様子はまるでなかった。
その射るような鋭い目は子供とは思えない凄味さえあった。
「一発でもそいつで俺を殴ってみろ、お前の首を噛み切ってやら」
悪童には当然ながら、まだもらい手が見つかっていない。
彼の他にも、抜けるような白い肌をした五歳の少女と、ひと言も言葉を発しない豆のように小さな四歳の豆坊、そして悪童と同じ九歳にして利発すぎる神童と呼ばれる少年の、あわせて四人がもらい手もなく孤児院にとり残されていた。
孤児院の閉鎖まではもう時間がない。
このまま誰ももらい手が現れなければ、彼らは「壁の外」に捨てられることになるだろう。「壁の外」とはすなわち壁外区のことだ。
かろうじて人の暮らす地域ではあったが、そこには凶暴な野生の怪物から守ってくれる強固な壁は存在しない。治安は最悪で、一切の犯罪がカウントされずに放置され、それは殺人すら例外ではなかった。
路上に転がった死体は当局の職員によって数日に一度処理されている。
不衛生で反吐と小便の臭いがこびりついた腐りきった地区、それが壁外区だ。
壁の内側――街に暮らす者たちにとって、壁外区は考えたくもない悪夢でしかなかった。
あんなところに放り出されたらもうおしまいだ。
人々は壁の外を恐れるあまり、考えられないほどの高い税率にも耐え、苦しい生活を強いられながらも必死にこの街にしがみついていた。そんな彼らに、良心や同情心から幼い子に手を差し伸べる余裕などまったくなかった。
数日にわたって繰り広げられた少年たちの争奪戦も、もう十代前半の目ぼしい「商品」が残されていないとわかると、客足はめっきり減った。
おそらくもう新しいもらい手は現れないだろう。
残された四人の子供たちが、空に広がった真っ赤な夕焼けを見あげていた。
誰も何も話さず、ただぼんやりと見あげていた。
いよいよ明日、この孤児院は閉鎖される。
少女はこの先自分たちはどうなってしまうんだろうと、何度も何度も考えていた。
そして真っ赤な空を見ているうちに、いつしかぽろぽろと涙がこぼれおちていた。
不安で胸が張り裂けそうだった。
神童が彼女を落ち着かせるように、そっと指で涙をふきとってやる。
彼はいつも優しかった。頭がいいだけでなく、とても繊細な少年だった。
一群の黒い人影がゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えたのは、それから間もなくのことだった。役人を引き連れてやって来たその男に誰もが深々と頭を下げる。
子供たちはその様子をじっと不安げに見守っていた。
ワイザー議員と呼ばれるその中年の男は、いずれ権力の中枢を担う人物だと目されていた。
そんな男がなぜ潰れかけの孤児院を訪れたのか、整理に当たっていた役人たちさえ何も知らされてはいなかった。
ただ無礼だけは絶対にあってはならない。それだけは肝に銘じた。
ワイザー議員が孤児院の前で立ち止まると、少女は不安そうに悪童の顔を見あげた。
悪童は怖い目をして、じっと議員をにらみつけている。今にも飛び掛かっていきそうだ。
少女は怖くなって悪童の手をぎゅっと握りしめた。
悪童も少女の手を握り返したが、なおも議員の顔をにらみ続けている。
何かよくないことが起こりそうだ……。
神童は自分の予想がことごとく的中するのをこの時はじめて疎ましく思った。
鼓動がやけに早くなっていく。これは間違いなく、よくない兆候だ……。
神童は昂ぶる気持ちを抑えるように、そっと目を閉じた。
第二章
神童は数ヶ月前に見たある夢を思い出した。
彼は廃墟となった美術館を歩いていた。他に人影もなく、展示物も何もない静まり返った回廊をたった一人でただ歩き続けていた。回廊の突き当りに位置する最も奥の部屋に入ると、ようやくそこで一枚の絵を見つけた。踊り子が描かれた小さな絵で、それは神童にとって初めて見る絵だった。
夢を見た数日後、神童は土に埋れた美術館の残骸から一枚の絵が無傷で発見されたという新聞記事を読んだ。発見された絵は彼が夢で見たのと全く同じ絵で、発掘にあたったのはワイザー財団だとその記事には記されていた。財団代表者の顔写真が記事の中で最も大きく取り扱われていた。
この奇妙な符合に導かれるようにして、神童は今こちらに向かって歩いて来る男がワイザー議員その人だと知りえたのだが、そこに芸術遺産を愛し、探し求める美術品蒐集家のイメージを重ねることはできなかった。
何やら得体の知れぬ陰鬱な影を身にまとった不吉な男がゆっくりと、だが迷いのない足どりでこちらへ近づいてくる。
役人の一人が子供たちの方を指して何やら説明する。
ワイザー議員は肯くが、その視線はすでにただ一人だけを捉えていた。
神童は絶望的な気分におそわれた。
「狙いは彼女だ……」
議員のじっとりと湿った視線がまっすぐ少女に向けられている。
少女は怯えていたが、強烈な磁力に吸い寄せられるように、どうしても目をそらすことができなかった。
ワイザー議員は少女のすぐ目の前まできて立ち止まると、少女の青碧の瞳をじっと見つめた。それからゆっくりとなめまわすように視線を移動させていく。
赤くて柔らかそうな唇、白くか細い首筋。
少女は瞬きもせずに硬い表情のまま立ち尽くしていたが、その小さな肩が微かに震えているのを見て、ワイザー議員は目を細めた。
そして少女の方にゆっくりと手を伸ばし、彼女の柔らかそうな髪にそっと指を絡めようとしたその瞬間、鋭い音が弾けた。
悪童が議員の手を思い切り払いのけたのだ。
「さわるなへんたい!」そう叫ぶや、悪童はワイザー議員の顔に唾を吐きかけた。
役人らが血相を変えて悪童を掴んで引きずりまわし、寄ってたかって袋叩きにした。
議員は白い布で頬に付いた唾を丁寧に拭き取りながら、傍らにいた役人の前に手のひらを差し出した。幾度となく繰り返されてきた動作なのだろう。役人は即座にその意図を理解し、議員の手の上に革の鞭を置いた。
紅潮したワイザー議員は唇の片端を少しだけあげたかと思うと、目を見開いていきなり鞭を振り下ろした。革がしなり、ひゅうと空気を切り裂いて、乾いた音が悪童の小さな背中に炸裂した。はうっと跳ね上がる悪童の身体。
さらに一発、もう一発、と続けざまに鞭が振り上げられては打ち下ろされる。
ぼろ布か何かのように悪童の身体が跳ねあがっては転がり、赤く腫れた皮膚からじわりと血が滲む。
朦朧とした悪童にさらに議員が鞭を振り下ろそうとしたとき、少女が泣きながら議員の脚にしがみついて懇願する。
「もうやめて!お願いだからもう許して」
少女の泣き叫ぶ声に、ワイザー議員はさらにもう一発、思い切り鞭を振り下ろしてから、ようやくその手を止めた。興奮した表情で、肩で荒い息をしている。
身体を丸めたままぐったりと地面に転がっている悪童の姿を、神童は一歩も動けず、ただ茫然と立ち尽くしたまま見つめていた。
ワイザー議員は泣き崩れる少女の頭に手をおくと、その髪に指を絡め、白い首筋をそっと撫でた。少女がびくりと反応するのを楽しむと、議員は気を失った悪童を覗き込むようにして身をかがめた。そして口の中にためていた唾液をどろっと悪童の頬に垂らした。
辺りは静けさにつつまれた。そこに居合わせた誰もが凍り付いたかのように微動だにしなかった。
ワイザー議員は冷酷な表情でしばらく悪童を見下ろしていたが、やがてゆっくりと少女の方に向きなおると、突然目尻を下げてにこっと笑った。
少女はぞっとして気を失いそうになった。今までこんなにも気色の悪い笑顔を見たことがなかった。
ワイザー議員は傍らの役人に何やら耳打ちすると、また一群を引き連れて、もと来た道を帰っていった。
あれから数時間が経った。もう夜はすっかり深まっている。
悪童はうつ伏せになったまま昏々と死んだように眠り続けていた。
少女はショックでずっと泣いていたが、いつしか眠ってしまい、小さな豆坊もその隣りでぐっすり眠っている。
神童だけがひとり起きていて、時おり悪童の背中にそっと薬草を塗っていた。
深夜二時をまわった頃、それまで微動だにしなかった悪童の身体が突如びくびくっと震えた。次の瞬間、身体中からどっと汗が流れ出てきて、悪童は背中の熱さで飛び起きた。
「アッツーーーーッ、あのブタ野郎!!」 悪童はとんでもなく大声で叫んだ。
身体が焼けるように熱い。
「あの野郎はどこだ!?」と怒りに燃える目で神童に訊いた。
「もう帰ったよ」と神童がぼそっと答えた。「明日、彼女を迎えに来るらしい」
神童は黙って悪童の背中に薬草を塗り続けている。悪童は必死に歯を食いしばるが、それでも呻き声が漏れてしまう。
悪童は痛みに耐えながらも、ずっと無言のままあることを考え続けていた。
だがいくら考えても答えは一つしかないように思えた。
「なあ……」
悪童は低い声で神童に訊いた。
神童は返事をせずになおも薬を塗り続けている。
「なあって」
悪童は今度は少しきつい口調で言い、振り返って神童の顔を見あげた。
神童は泣きそうな顔をしていた。悪童は神童のそんな顔を見たことがなかった。
その目をじっと見て、悪童は静かに言った。「暗いうちにここを出よう」
神童もずっと同じ事を考えていた。だが自分一人ではどうすることもできない。あまりにも無力だ。
悪童の身体さえ大丈夫ならそうしたいと思っていたが、見る限り、明らかに悪童の身体は大丈夫ではなかった。傷は膨れ上がり、熱も高い。
だが悪童は決めたのだ。もう何を言っても無駄だろう。
彼はこうと決めたら絶対にやる。何があっても引かないのは、神童が一番よくわかっていた。
まだ外は真っ暗だというのに、遠くの方から馬車の音が聞こえてくる。
その音はほんの少しずつだが、確実に大きくなっていった――
第三章
神童は薬草を染みこませた布を悪童の背中にべったりと貼り付けると、包帯で一気にぐるぐる巻きにした。もう時間がない。悪童は包帯を胴体に巻かれながら、「豆坊、起きろ、豆坊」と何度も押し殺した声で呼びかけ、足先でつついたが、豆坊はいっこうに目を覚まさない。豆坊の眠りは恐ろしく深いのだ。彼は何があろうと朝まで絶対に目を覚まさない。
「こんだけ眠るのに小さすぎるだろ」と悪童が豆坊を足でぐりぐり回すが、回されても豆坊はスースー寝息をたてて眠り続けていた。
馬車の音がかなり近づいた。神童が包帯を巻き終えると、豆坊を担ぎ、
「急ごう、豆坊ならなんとかする」
「あの変態野郎、焦りすぎだろ」
普段なら体格のいい悪童が豆坊を背負うところだが、今の彼は背中に羽根が触れただけでも飛び上がって叫ぶだろう。悪童は顔をしかめながら、先に裏窓から外へ出て少女を手で支えてやる。姿勢を少し変えるだけでも背中が熱い。まだ熱も引かず足元がふらつくし、身体中がとにかく火照っていたが、そんなことは構ってられなかった。
少女は目を真っ赤にしていた。悪童は不安で泣いているのだと思っていたが、彼女は今は嬉しくて泣いていた。あの気持ちの悪い男と一緒に暮らすことになると知らされた時はショックで涙が止まらなかったが、悪童と神童が一緒に逃げてくれるなら、どんなところでも生きていける気がした。
黒光りした大きな馬車が孤児院の前で停まった。特権区で使われている特製の馬車だ。
この馬車にワイザー議員本人が乗っているのかどうかはまだわからないが、彼が寄越したのは間違いない。中から使いの役人が二人下りてきて、足早に孤児院の入り口へ向かった。
なぜこんな真夜中に現れたのかは謎だが、ワイザー議員の行動は意表をつくことが多く、気まぐれだの自分本位だのといろいろ陰では言われていた。だが、一つだけ確かなのは、ワイザー議員は恐ろしく直感が働くということだ。それは今回も実証された。
実際、孤児院に宿直している役人たちは全員深い眠りについていた。ようやく馬車の訪問に気付き、上の階でバタバタと起き出して、明かりが次々と灯された頃には、悪童は裏の塀をよじ登って隣の敷地におりていた。
神童から豆坊を受け取り、少女にも手を貸して塀からおろした。背中に激痛が走る度にムカムカとあの男の顔を思い出す。
「あの野郎、何で俺たちが逃げるって分かったんだよ!」
「きっと自分の気持ちの悪さを自覚してるんだよ」
神童は皮肉っぽく言い、最後に塀を乗り越えた。
四人は孤児院裏の敷地も横切り、さらに柵を越えて路地を走った。悪童はふらふらと時々壁にぶち当りそうになりながらも、こんな熱、気合でなんとかなると自分に言い聞かせて走り続けた。
周囲は真っ暗だが、子供たちはこの辺の地理なら知り尽くしている。とにかくできるだけ早く遠くへ逃げたい。彼らは細い路地を選んでは何度も何度も角を曲がった。
すでに方々から大人たちの叫び声と足音が聞こえてくる。騒ぎに気付いた住人らが明かりを灯し、窓を開けて路地の様子を伺っている。足音は横からも前方からも聞こえてくるし、石畳を走る馬車の音も響き渡っている。もう後戻りはできない。子供たちは全力で走り続けるしかなかった。
大通りを越えて隣りのブロックに入ってしまえば、さらに道幅が狭くなり通りがごちゃごちゃする。馬車は通れないはずだ。目の前の大通りを越えさえすれば何とかなる。
悪童が脇道を出て大通りを渡ろうとしたその時、黒光りする馬車が猛烈な勢いで駆け込んできた。子供たちは慌てて引き返し、狭い脇道のポリバケツの陰に身を隠したが、馬車は彼らのすぐ近くで停まり、中から数人の役人が駆け下りてきた。
ランタンが揺れ、役人らが手分けして細い路地を走る。
役人の一人が子供たちが隠れている路地にも入ってきた。汚くて臭いポリバケツが照らされ、役人は顔をしかめた。
悪童はポリバケツのそばに転がっている大きな酒の空き瓶をじっと見つめていた。
手を伸ばせば届く。
だが神童が首を横に振った。ここで騒ぎを起こせば人が集まる。神童は真剣な表情でもう一度首を振った。
役人は汚いポリバケツと、その奥の細い路地を何度か照らしたが、それ以上は奥に入り込んではこなかった。子供たちはバケツの裏でじっと身を低くして息を潜めていた。豆坊の寝息だけが微かに聞こえるが、役人は気づかず、足音はやがて遠ざかっていった。
馬車の扉が開き、中から身を乗り出して役人たちに指示を飛ばしている男は、紛れもなくワイザー議員本人だった。
「まだその辺にいるはずだ!さっさと捜せ、早く行け!」
議員が怒鳴り散らし、役人たちが走っていく。
本人がわざわざ来ていることに神童は驚いた。それほど少女に固執しているということか。議員の声を聞いた途端、少女が震えだし、神童はその手を握って落ち着かせた。もう少し辛抱すれば馬車は諦めて別の場所へ移動するだろう。
「もう少しだけ。あと少し」
神童は震える少女の肩を優しくさすったが、背後で異様な気配を感じてさっと振り返った時にはもう遅かった。
一瞬のことだった。
神童の視界を悪童が横切り、転がっていた空き瓶を掴んだかと思うと、彼は馬車に飛び込んでいった。神童はただ呆然と見送るしかなかった。
その直後、馬車の中から鈍い音がして、男のけたたましい悲鳴が聞こえた。
「おい!」
悪童が叫び、ハッと我に返った神童は豆坊を抱きかかえ、少女の手を引いて走った。馬車の前を回り込んだ時に、顔面を両手で覆って、狂ったように喚くワイザー議員の姿が見えた。指の間からだらだらと血が滴り落ちている。
方々からものすごい勢いで役人たちの駆け戻って来る足音が聞こえる。
悪童が通りを渡ったところでこっちだと手を振った。
神童は豆坊を抱え、少女の手を引いて必死に走った。神童は怒りで叫びそうになった。
もう少しでうまくいくところだったのに、悪童が台無しにしたのだ。
とにかく走るしかなかった。どっちの方向へ向いているのかもわからないぐらい、次々と角を曲がり、塀を乗り越えて、さらに脇道を抜けて、子供たちはただひたすら走り続けた。
のちに貴族院の代表を務めるワイザー公は、九歳の少年によるこの襲撃で左目の視力をほぼ失った――
悪童のせいで真夜中の街には非常時に使われる警鐘が鳴り響き、追手の数も数倍に膨れ上がった。もう子供たちが捕まるのも時間の問題だと誰もが思った。
役人や憲兵らは子供たちがこの街のどこかに身を潜めているものだと確信して、路地裏や倉庫や空き部屋をくまなく捜査した。子供たちが隠れられるのはせいぜいその辺りが限界で、長時間の潜伏など不可能だと考えていた。
子供たちが壁の外へ出る可能性は最初から排除された。理由は壁の外に子供の生き延びる場所などないからだ。もし仮に壁の外へ出たとしても壁外区を探せば済むことだ。小銭を握らせるだけで、身寄りのない子供の情報など簡単に手に入るはずだと彼らは高を括っていた。
だが子供たちは全く別の計画を立てていた。
神童は兵団輸送隊の早朝第一便が出る時刻を把握していた。装備や資材を運び出す六台の荷車が門を出る時刻が迫っていた。
この日は大砲も出るし、細々とした資材も多く、荷台は山積みだった。
だが確認作業に当たっていた若い兵士がふと違和感を感じた。シートが先ほどの点検時より少し上がっている。
若い兵士はそっとシートをめくり、ランタンで奥を照らした。身を小さくしている数人の子供たちを発見するのにそれほど時間は掛からなかった。
その若い兵士はまだ二十代半ばだが、頭も切れるし責任感も強く、搬送隊の管理全般を任されていた。
中隊長が荷台の下から声を掛ける。
「異常はないか?」
荷台の奥で、他の子供たちを守るようにしてこちらをにらみつけている悪童の目を、若い兵士はじっと見ていた。黙っていてくれと懇願するわけでもなく、むしろ挑戦的な目でこちらをにらみつけている。
兵士は未明に貴族が襲われた事件のことを聞いていたが、役人や憲兵が必死に追っているのがまだこんな小さな子供たちだとは思いもしなかった。
「おいベントン」
中隊長の声がもう一度して、若い兵士は悪童の目を見ながら答えた。
「異常ありません」
若い兵士はふっと少し笑ってみせると、
「まあ、頑張れよ」と子供たちを隠すようにシートを下した。
彼が合図を送ると、正門がゆっくりと開いていった――
街中を必死に探していた役人らが、六台の荷車を追って壁の外に出たのは正午前のことで、すでに子供たちは荷車を降りた後だった。
兵団の輸送部隊が北へ向かう搬送路に入る前に、子供たちは隊列を離れた。
若い兵士は訊いた。
「行く宛はあるのか?」
「西へ向かう」と悪童が答えた。
平原を越えるのは大人でも容易ではなかったが、若い兵士はこのギラギラした目の少年なら何とかしてみせるような気がした。
兵士はそれ以上は何も言わず、軽く手をあげて子供たちと別れた。
広い平原にぽつんと四人だけが取り残された時、少女は不安よりもむしろ追っ手の姿が見えないことにほっとしていた。
これからの方がずっと大変なはずなのに、とにかく四人だけになれたことが嬉しくて涙が流れた。
「また泣いてるよ」
悪童がからかい、少女が袖で涙を拭いたとき、ようやく大きな欠伸をして豆坊が目を覚ました。
■
神童は普段から外の世界について書かれた本を読みあさっていた。
西に広大な平原が広がり、その先に巨大で深い鍾乳洞が存在する。それを越えて……。
だがいくら頭の中で文献を整理しても、危険な怪物に出会わずに進むルートなど分かるはずもなかった。実際に足を踏み入れるのはこれが初めてなのだ。
いったい子供の足で何日かかるだろう。いや、本当にあの村に辿りつけるのだろうか……。
あの村……それは以前、孤児院に教えに来ていた宣教師の一人から聞いた話だ。
西の果てに辺境の村がある。そこでは人々はこの街よりもずっと人間らしい暮らしをしていると彼は教えてくれた。ただしその村は普通の村ではなく、忍術使いの暮らす村だと言って彼は笑った。
神童は何とかその村を想像しようとしたが難しかった。
悪童は初めて聞く忍術使いという言葉の響きに、ぞくぞくと興奮した。
神童は全ての道程に少なくとも八十日は掛かると予想したが、彼にしてはめずらしく大きく外した。実際に彼らがこの旅に費やした日数は百九十四日だった。怪物が通り過ぎるのを待つのに丸三日かけたこともある。
その用心深さが実を結んだかと言えばそうでもなく、全員が何度か怪物に噛まれて血を流した。豆坊は怪物に丸呑みされそうになったし、悪童は脇腹と太ももを深く噛まれて出血が止まらなくなったこともあった。
運よく二人の大男に出会って悪童は一命を取りとめたが、この大男たちは正真正銘の変人だった。むさ苦しい髭を生やしている方の巨漢は、怪物の皮をはいでそれを頭からすっぽり被っていたので、遠目には怪物にしか見えなかった。
髭もじゃの巨漢が兄で、禿ているデブが弟だ。彼らは地理にも薬草にも怪物の種類にも精通していた。これからまだ見ぬ怪物を追って北の山へ入るところだと言ったが、何だかんだと言いながらも悪童の容態が落ち着くまでの数日間、彼らは付き合ってくれた。
その間に神童は薬草の種類と効用を詳しく聞いて覚えていった。生息する怪物たちについても何度も質問をして、もらった地図に詳細を書き込んでいった。
太った弟が悪童の裂傷に薬を擦り込んでくれたが、三日目に髭もじゃの兄がその傷跡を見ながら真剣な表情で呟いた。
「こいつの回復力はぶっ飛んでるよな」
ぶっ飛んでるというのは、どうやら並はずれて凄いという意味らしく、悪童の治癒力に本気で驚いている様子だった。
「お前、すぐ治るからって無茶しすぎるなよ」と大きな手で悪童の髪をくしゃくしゃにして大男は笑った。
彼らは怪物を捌いて子供たちに肉を与え、美味い肉や毒のないキノコ、栄養になる植物などを神童に教え込んだ。
「怪物をぶった切る武器」を悪童に与え、子供でも怪物を倒せる秘密の作戦を伝授した。
悪童はこの時もらった「黒牙」と柄に刻印された短刀を宝物のように大切にした。
変人兄弟と別れてから数日後、悪童は早速、彼らの教えに従って穴を掘った。早く作戦を実践したくて仕方なかったのだ。
深く掘った穴に悪童が潜り、その穴の上に太い枝を何本も重ね合わせて神童たちに草を敷き詰めさせ、餌も置かせた。
少女は「本当に大丈夫?」と心配そうに何度も聞いたが、悪童は自信たっぷりに「大丈夫だ」と言うだけだった。
悪童は穴の中で竹槍を握り、じっと怪物が穴の上を通るのを待った。暑いし、虫に刺されたり食われたりもしたが、辛抱強く何時間も待ち続けた。
夕刻、ようやく一頭の怪物がゆっくりと近づいてきた。鼻を鳴らす音が間近に聞こえてきて、離れた茂みからその様子を見つめていた神童や少女は、緊張のあまり思わず声が漏れそうになった。
穴の中の悪童も緊張で汗だくになっていた。だが汗で手が滑ったらおしまいだ。彼は何度も何度も手の汗を拭って竹槍を握り直した。
ついに怪物が穴の上に差し掛かった。悪童はまだだと自分に言い聞かせて粘り続け、ついに怪物の腹部が視界に入った瞬間、一気に竹槍を突き上げた。
だが怪物の皮膚が思いのほか厚かったのか力が足りなかったのか、竹槍の尖端がしなって折れ、あまり深くまでは刺さり切らずに、怪物が壮絶に暴れまわった。
少女はもう泣きそうな顔で思わず立ち上がっていた。
暴れ回る怪物が足を滑らせて穴に落ち、悪童は危うく下敷きになるところだったが、すばやく隙間から這い出て、怪物の首のあたりを今度は隠し持っていた短刀で突き刺した。暴れ回る怪物の上に飛び乗るようにして、さらに何度も何度も怪物が動かなくなるまでめった刺しにした。
神童たちが駆け寄った時、悪童の顔は返り血を浴びて真っ赤に染まっていたが、白い歯をニッと見せて彼は笑った。
「へへ、やったぞ」
これが悪童が仕留めた怪物の記念すべき第一号となった。
子供たちは火を熾し、長い時間をかけて怪物を炙った。
悪童が短刀で肉を削ってやると、子供たちは次々とそれを手掴みで食べていった。
空腹だった彼らにとって、その肉はびっくりするほど美味かった。豆坊は相変わらずひと言も話さなかったが、肉を大量に食べてみんなを笑わせた。
だが、この旅の大部分は、子供たちにとってあまりにも過酷なものとなった。
死に物狂いのギリギリの戦いの連続に、日に日に子供たちからは笑顔が消え、言葉が消え、顔や身体は傷だらけになって消耗していった。
彼らは押し黙ったまま、長い長い道のりをただひたすら歩き続けた。
百九十四日目に、ようやく彼らが西の果てに存在すると言われていた村に辿り着いた時、あんなにあどけなかった子供たちの表情からは一切の幼さが消えていた。
頬はやせこけ、日焼けと泥と血で薄汚れた肌はどす黒く、野蛮で獰猛な獣のような目だけがギラギラと光を放っていた。
一人の老人がゆっくりとこちらに近づいてきた。
彼はしばらく黙ってへたり込む子供たちの姿を眺めていたが、
「よう来たな」
と目を細めて笑った。
まだかろうじて立ち続けていた悪童は、その笑顔になぜかこれまで感じた事のないほどの恐怖に襲われた。老人の目は底なしの深い沼のようで、身体全体が吸い込まれるような錯覚に陥り、悪童はそのままバタンと地面に倒れて気を失った。
それから三日三晩、悪童は昏々と眠り続けた。
老人はこのオルド村の村長でモリスといった。忍術の師範も兼ね、子供たちは彼のもとで間もなく修行を始めることとなる。
その後、急速に力を付けていく子供たちは、やがて腕の立つ忍術使いに成長し、第五大陸に名を轟かせることになるのだが、それはまた別の機会に語られることになるだろう――
ちなみに、豆坊と呼ばれていた小さな小さな少年は、悪童や神童の背丈をかるく追い越し、誰もが驚くほどの巨漢に成長した――